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新・のんき大将のごたく from 川口義之


2001年12月31日(月)よいお年を

たぶん10年ぶりくらいに紅白を見ています。
いやもっと久しぶりか。たまが出てたのを見た覚えもないからなあ。
最近NHKに出向くことが多かったせいか、妙に親近感がわいているようで
あの独特な番組のトーンを楽しんでいたりします。
この1年、とくにこの1ヶ月は飛ぶように過ぎてしまい、このページの
更新もままならない状態でした。
あまりにいろいろな出来事が11月の末ころからたて続き、
精神状態もじつにHigh&Low(にん!!)
正月は再びタイの山や海で精神を解放してこようと
思ってます。
森昌子16年ぶりなのか!俺が知ってるかぎりいつも出てたような
気がする…ってことは俺って上京(おお、すてきな響き!)してから
まともに紅白みたことないのねえ。
なんか今年の紅白ってドリフ臭が強いような気がするんだけど
いつもそうなのかなあ。隠し芸大会もこんな様子なのかなあ?
そろそろ斉藤くんに会いにマンダラ2に出向こうと思います。
よいお年を。



    

[link:30] 2001年12月31日(月) 23:08


2002年01月22日(火)新春に思ったいくつかの事柄

新年、初書き込みはどうも構えてしまうなあ、なんて思っているうちに七草粥の時期も過ぎ
成人式も終わり、システマ冬まつりも終わり、あらもう節分も近くなりました。
昨日は季節はずれの雨と風。アフガン支援会議も日本のNGO抜きで始まったらしい。
こちらも波乱含みですな。
さて、今回2001〜2002は大晦日の年越しライブをするでもなく(見てたけど)
海外で年を越すでもなく過ごしました。それにはちょっとした訳があったのですが。
(以下省略)

寄稿文に関してのことを書こうとしたら思いでばなしになってしまった。
ちょっと尻切れっぽいけど栗コーダ−の新年初仕事に遅れそうなのでつづきは明日。

じゃなくて2/1に書き直されております。失礼。





[link:31] 2002年02月01日(金) 13:56


2002年02月01日(金)

つづきは明日って書いておきながら2月に入ってしまった。
あんたのあしたっていつやねん!

あまりに文章が取り留めなかったので少し書き直してみた。


新年、初書き込みはどうも構えてしまうなあ、なんて思っているうちに七草粥の時期も過ぎ
成人式も終わり、システマ冬まつりも終わり、あらもう節分も近くなりました。
昨日は季節はずれの雨と風。アフガン支援会議も日本のNGO抜きで始まったらしい。
こちらも波乱含みですな。(1/22)

なんて思っていたら国会、すごいことになりましたな。
ここまで荒れるとは…やれやれ。


さて、今回2001〜2002は大晦日の年越しライブをするでもなく(見てたけど)
海外で年を越すでもなく過ごしました。それにはちょっとした訳があったのですが。

ある程度以上の年令の方は身に覚えがあるかもしれません。平たく言うと同窓会、
ただ自主的に開く小振りなものではなく、出身高校の卒業生が一堂に会する大規模なもの。
場所もグランドホテル浜松(鳳凰の間)なんていうたいそうな所を借り切って行ったわけです。
新年恒例の行事らしいのですが、もちろんいままでは顔を出した事ありません。
今年は自分たちが卒業した年度が幹事となって取り仕切る番だったのですね。

実はずいぶん前に私のところに栗コーダ−の資料を送るように要請がありまして、
つまり、第1部のアトラクションの候補に挙げられていたんですが、けっきょく同期の女子が
フラメンコダンサー!になっておりまして、そちらが出演することに。
栗コーダ−は会場のBGMに使われるという円満な解決がみられました。

そこまではまだいいのですが、少々弱ったのはその会に合わせて編纂される冊子に
寄稿文を、とたのまれテーマは「夢かなう」ですって!絶句…。

私の卒業した年の浜松西高校は、初めての甲子園出場、バレー部、バスケット部が
インターハイ出場など、ここ数十年間ずっとお勉強学校だった中で、奇跡的に他の活躍の
目立った年でありました。わたしを含めて大学受験を無視したようなひどい遊びっぷりの
輩も多くて、たしかその年の合格者数は卒業者数の半数を下回ったんじゃなかったかな。

甲子園の2回戦で負けた8月15日までずっとばか騒ぎしてたんだからしょうがない。
たしか200人くらいが受験浪人したんだな、俺も含めて。
そりゃ先生がたも、大慌てしたものでした。

なのに卒業してから20年もたったら、いい思いでしか残ってないわけで、
先生がたよ、結局甲子園ばんざい!ですか?
そして、川口さん御活躍のようで…ですか?
(実際、在学当時の恩師にそのように声をかけられた)

当時を思い出すねえ。軽音楽部を作ろうとして人を集めて相談にいったら
受験勉強に差し障ると言われ、成績の悪いお前が代表じゃ話しにならないって
あたまごなしに潰されたねえ。
バレー、バスケットのインターハイ出場も野球の大騒ぎでどこかに飛んでっちゃうし
やっぱり同じ頑張るなら人気のあることやらなきゃ報われないのかしら?なんて
世の中ってものを痛切に感じたねえ。

で、あんなに追試、追試って追い立てられたダメ組の俺に何を書けってえの?

さて寄稿文をたのまれた他の人の名を聞くと、筆頭には現スイス大使。同期では、作家、
アナウンサー、フラメンコ舞踏家、甲子園出場時のピッチャー、とわたし。
とほほ、場違いだよなあ…と思いは高校時代の教室の廊下。

そのピッチャーMくんとわたしは近所に住んでいて、もちろん幼稚園、小学校、中学校、
そして高校とそれぞれの時期に深く浅く付き合ってきた。音楽も好きで、たしか
奴に教えてもらったレコード等もあったような気がする。
授業中に自分の下敷きに、知ってるミュージシャンの名前を書き出して競争したりね。

Mくんは子供の頃からもてもてで、バレンタインデーに山のようなチョコを貰っていたな。
頭も切れるやつで、まして運動能力たるやすごかった。
走り幅跳びなんて、普通のやつらよりも1〜2メートルも遠くに飛んじゃうんだ。

Mくんは俺たちがバンドでコンテストに出たことも、決勝に残ったことも知っていて
野球の県大会決勝の前の日には柄でもなく、俺も頑張ってくるって握手をしたり。
でもその翌日、優勝が決まってからは手の届かない存在みたいになってたなあ。

まさに県大会優勝が決まった瞬間から彼はヒーローだったわけで、
いっしょに街を歩いていると、見知らぬ女子高生たちからサインをせがまれたり…。

Mくんは県大会中全試合を無失点で投げ通し、かなりの試合では打撃でも活躍。
甲子園の1回戦も無失点記録を更新。そして立教大学の野球部へ。たしか何試合か投げたはず。
でも今にして思えば奴の目標は野球の一番じゃなかったんだよな、たぶん。
いや、全国から集まる腕自慢の中で、Mくんは自分の行き先が違うことに気がついたのか。

風のたよりで野球をやめたって聞いた。二十歳のころだったか。
でもいくら続けてたって今まで続いてたら奇跡に近い。同じ年の甲子園組でプロになって
現役でやってるのは工藤ただ1人。夢からさめる時は必ずやってくる。

あいつはいったいどんなことを書くんだろう。
なにせMくんは、はためには若くして「夢」をかなえてしまった者なのだ。

僕は、おすもうさんや体操選手が若くして引退して、第2の人生をなどと聞く度に
彼のことを思い出した。しかしこの10年ほどはそうでもなくなっていた。
だって夢を追っていた10代の頃よりも、
夢をかなえてからの人生のほうがずいぶんと長くなっているのだ。

なんの話しだっけ。そうだ、寄稿文だ。
僕は締めきりまでなやんだ挙げ句、現在の自分の状況をただ伝えることだけをした。
おめでたい席に向けての美辞麗句をならべることはどうしてもできなかった。
おそらくまわりの文章から浮いてしまうだろうと思っていたが…。

送られてきた冊子を読んだ。当時からひねくれものだった作家(奴もロック好きだったな)
は、やはりシニカルかつ少々難しく、でもカフカの寓話を引用した魅力ある文章だった。
そしてMくんは…実に事態を客観視した、力の抜けた(ようにみえる)文章であった。
たぶんいい人生を送っているのだろう。ほっとした、というよりなんだかうれしくなった。



追:宇宙飛行士ガガーリンのドキュメントを見た。
人類の夢を果たしてしまった後の彼の人生は辛そうであった。



追:僕のまわりには大学を卒業して普通に就職して、10年以上勤めて、
なぜか突然辞めて、また音楽を始めた先輩もいるし、
10年以上もバンドに人生を賭けて、今は普通に就職してる先輩もいる。
ま、そういうことなのだろう。

[link:32] 2002年02月01日(金) 14:24


2002年02月13日(水)その頃東京中低域は名古屋でラジオ出演中

ううむ…流石、大原裕!彼はどこまで行くのだろう?いや行かないのだろう。
渋さ知らズの最初のヨーロッパツアーの時に一緒だった大原さんは、
まだ序曲に過ぎなかったようだ。

ステージが始まって3曲目に現れて、今始まったとこだろ?って言ってみたり、
(いい気持ちで酔って、こっくりこっくりしていると音が聞こえてきたらしい)
ソロの順番が廻ってきたら椅子に座ってやっぱり寝てたり、
それでいて、おもむろにパーカッションを手に取って振り始めたり
(とてもうまいのですよ!これが)
リハーサルの時に1人、ステージから降りてPAエンジニアに音の指示を始めたり、
(不破さんの音の好みとぶつかって、なんだかもめてたなあ)
しっかりしたところと、どうしようもないところが行ったり来たりしてました。

それのしてもジャズ環境の人たちって優しいよなあ。
渋谷さんのオーケストラに大原さんが飛び入りしたときに、たまたま見てたんだけど
(今思えばこりゃ貴重だ)
大原さんの気持ちの勢いだけがある一音に、みんなで整合性をとろうと懸命でした。
とくに同じトロンボーンの松本治さんが、大原さんと交互に演奏した4バースソロは
素晴らしかった。(4小節ごとにソロを交代して吹くのです)

10年近く前のことだが、大原さん率いるSights(綴りこうだっけ?)
がPit Innに出演した時に、普通に演奏している姿を見ている。
(たぶんドラムの芳垣さんを初めて見たのもその頃だったと思う)
異常な勢いのソロをとったかと思うと、おもむろにパーカッションをかかえて
振り始める、しかも顔はあくまで深刻である。全く楽しそうではない。
強いリズムと迫力ある音が、げんこつで殴る勢いで飛びかかってくるような音楽だった。



一方、昨日はわたし、昼間っから演奏していて、
その集まりは梅津和時率いるHOBO・サックス・カルテット・マイナス・ワンだった。
マイナス・ワンはもちろん、西の大原に対する、東の大酒のみ!野本和浩その人である。
こちらは無断欠席ではなく、病気治療中による外出禁止が原因だったのだが。

ライブに居れば居たで、奇妙奇天烈なパフォーマンスに対応を困ったりするし、
飲んで訳の分からない電話をかけてきて不愉快になったりもするが、
基本的には音楽にまじめな、自分のこと、自分の才能が好きで好きでたまらない
芸術家タイプの御仁である。

その野本っちゃんと初めて遇ったのは、やはり10年近く前かなあ。
タモリのバラエティ番組にトラで入った時である。
(その際、関根勤の生カンフーものまねをステージ袖で見て感動した)

彼も人の代役で来ていて、偶然二人ともテナーサックスで呼ばれていた。
なんとも勢いのある音で吹く人だなあって感心したものである。
(そういえば番組の最後に、彼はバンドの紹介のMCまで頼まれていた。
当時からめだつ風貌、かつ、しっかりしてそうにみえた。が、本番は
わりとあがってたのか、妙なことを口走っていたのが印象的だった)

東西の雄の共通点としては、二人とも関島さんのバンド仲間!ってこと以外に、
書く曲が山菜…じゃない繊細だったりする。
とても音楽のことが好きでたまらない様子も似ている。

ふたりを思うたびに、まじめってなんだろう?って考えてしまうのだ。
俺って人生をいいかげんに過ごしてるのかなあってね。

[link:33] 2002年02月13日(水) 11:22


2002年02月24日(日)日本のロック30年

今週は鈴木慶一さんに始まり早川義夫さんに終わるのであった。
(1週間を月曜始まりとする)
さらに早川さんのリハの日の翌日はあがたさんのリハだった。
あまりに慌ただしくてなんだか実感はないのだが。

先週はHOBOサックスカルテット(−1)で梅津和時さんとライブをした翌日、
渋さ知らズで片山広明さんと御一緒している。(もちろんRCつながりである)
アルトの梅津さんとはテナーで、テナーの片山さんとはアルトで共演となる。

いち音楽ファンとして、大御所たちの個性の違いを真近に感じることができる
こんな機会が多々訪れるとは、ほんの数年前には考えられなかった。
ちょっと前まではバンドの中の蛙でしたからなあ。
個人で活動を始めてよかったなあ。
(そんななかで栗コーダ−はなんとなく始まったのです)

常に緊張感をもって、こんな機会を大事にしていくべきだろう。
さあ今日は早川さんだ。あ、緊張しすぎないでいこう…。
あ、おまけに遅刻しそう。

[link:34] 2002年02月25日(月) 17:44


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