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新・のんき大将のごたく from 川口義之:2002-02-01


2002年02月01日(金)

つづきは明日って書いておきながら2月に入ってしまった。
あんたのあしたっていつやねん!

あまりに文章が取り留めなかったので少し書き直してみた。


新年、初書き込みはどうも構えてしまうなあ、なんて思っているうちに七草粥の時期も過ぎ
成人式も終わり、システマ冬まつりも終わり、あらもう節分も近くなりました。
昨日は季節はずれの雨と風。アフガン支援会議も日本のNGO抜きで始まったらしい。
こちらも波乱含みですな。(1/22)

なんて思っていたら国会、すごいことになりましたな。
ここまで荒れるとは…やれやれ。


さて、今回2001〜2002は大晦日の年越しライブをするでもなく(見てたけど)
海外で年を越すでもなく過ごしました。それにはちょっとした訳があったのですが。

ある程度以上の年令の方は身に覚えがあるかもしれません。平たく言うと同窓会、
ただ自主的に開く小振りなものではなく、出身高校の卒業生が一堂に会する大規模なもの。
場所もグランドホテル浜松(鳳凰の間)なんていうたいそうな所を借り切って行ったわけです。
新年恒例の行事らしいのですが、もちろんいままでは顔を出した事ありません。
今年は自分たちが卒業した年度が幹事となって取り仕切る番だったのですね。

実はずいぶん前に私のところに栗コーダ−の資料を送るように要請がありまして、
つまり、第1部のアトラクションの候補に挙げられていたんですが、けっきょく同期の女子が
フラメンコダンサー!になっておりまして、そちらが出演することに。
栗コーダ−は会場のBGMに使われるという円満な解決がみられました。

そこまではまだいいのですが、少々弱ったのはその会に合わせて編纂される冊子に
寄稿文を、とたのまれテーマは「夢かなう」ですって!絶句…。

私の卒業した年の浜松西高校は、初めての甲子園出場、バレー部、バスケット部が
インターハイ出場など、ここ数十年間ずっとお勉強学校だった中で、奇跡的に他の活躍の
目立った年でありました。わたしを含めて大学受験を無視したようなひどい遊びっぷりの
輩も多くて、たしかその年の合格者数は卒業者数の半数を下回ったんじゃなかったかな。

甲子園の2回戦で負けた8月15日までずっとばか騒ぎしてたんだからしょうがない。
たしか200人くらいが受験浪人したんだな、俺も含めて。
そりゃ先生がたも、大慌てしたものでした。

なのに卒業してから20年もたったら、いい思いでしか残ってないわけで、
先生がたよ、結局甲子園ばんざい!ですか?
そして、川口さん御活躍のようで…ですか?
(実際、在学当時の恩師にそのように声をかけられた)

当時を思い出すねえ。軽音楽部を作ろうとして人を集めて相談にいったら
受験勉強に差し障ると言われ、成績の悪いお前が代表じゃ話しにならないって
あたまごなしに潰されたねえ。
バレー、バスケットのインターハイ出場も野球の大騒ぎでどこかに飛んでっちゃうし
やっぱり同じ頑張るなら人気のあることやらなきゃ報われないのかしら?なんて
世の中ってものを痛切に感じたねえ。

で、あんなに追試、追試って追い立てられたダメ組の俺に何を書けってえの?

さて寄稿文をたのまれた他の人の名を聞くと、筆頭には現スイス大使。同期では、作家、
アナウンサー、フラメンコ舞踏家、甲子園出場時のピッチャー、とわたし。
とほほ、場違いだよなあ…と思いは高校時代の教室の廊下。

そのピッチャーMくんとわたしは近所に住んでいて、もちろん幼稚園、小学校、中学校、
そして高校とそれぞれの時期に深く浅く付き合ってきた。音楽も好きで、たしか
奴に教えてもらったレコード等もあったような気がする。
授業中に自分の下敷きに、知ってるミュージシャンの名前を書き出して競争したりね。

Mくんは子供の頃からもてもてで、バレンタインデーに山のようなチョコを貰っていたな。
頭も切れるやつで、まして運動能力たるやすごかった。
走り幅跳びなんて、普通のやつらよりも1〜2メートルも遠くに飛んじゃうんだ。

Mくんは俺たちがバンドでコンテストに出たことも、決勝に残ったことも知っていて
野球の県大会決勝の前の日には柄でもなく、俺も頑張ってくるって握手をしたり。
でもその翌日、優勝が決まってからは手の届かない存在みたいになってたなあ。

まさに県大会優勝が決まった瞬間から彼はヒーローだったわけで、
いっしょに街を歩いていると、見知らぬ女子高生たちからサインをせがまれたり…。

Mくんは県大会中全試合を無失点で投げ通し、かなりの試合では打撃でも活躍。
甲子園の1回戦も無失点記録を更新。そして立教大学の野球部へ。たしか何試合か投げたはず。
でも今にして思えば奴の目標は野球の一番じゃなかったんだよな、たぶん。
いや、全国から集まる腕自慢の中で、Mくんは自分の行き先が違うことに気がついたのか。

風のたよりで野球をやめたって聞いた。二十歳のころだったか。
でもいくら続けてたって今まで続いてたら奇跡に近い。同じ年の甲子園組でプロになって
現役でやってるのは工藤ただ1人。夢からさめる時は必ずやってくる。

あいつはいったいどんなことを書くんだろう。
なにせMくんは、はためには若くして「夢」をかなえてしまった者なのだ。

僕は、おすもうさんや体操選手が若くして引退して、第2の人生をなどと聞く度に
彼のことを思い出した。しかしこの10年ほどはそうでもなくなっていた。
だって夢を追っていた10代の頃よりも、
夢をかなえてからの人生のほうがずいぶんと長くなっているのだ。

なんの話しだっけ。そうだ、寄稿文だ。
僕は締めきりまでなやんだ挙げ句、現在の自分の状況をただ伝えることだけをした。
おめでたい席に向けての美辞麗句をならべることはどうしてもできなかった。
おそらくまわりの文章から浮いてしまうだろうと思っていたが…。

送られてきた冊子を読んだ。当時からひねくれものだった作家(奴もロック好きだったな)
は、やはりシニカルかつ少々難しく、でもカフカの寓話を引用した魅力ある文章だった。
そしてMくんは…実に事態を客観視した、力の抜けた(ようにみえる)文章であった。
たぶんいい人生を送っているのだろう。ほっとした、というよりなんだかうれしくなった。



追:宇宙飛行士ガガーリンのドキュメントを見た。
人類の夢を果たしてしまった後の彼の人生は辛そうであった。



追:僕のまわりには大学を卒業して普通に就職して、10年以上勤めて、
なぜか突然辞めて、また音楽を始めた先輩もいるし、
10年以上もバンドに人生を賭けて、今は普通に就職してる先輩もいる。
ま、そういうことなのだろう。

[link:32] 2002年02月01日(金) 14:24


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